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山口地方裁判所下関支部 昭和51年(わ)57号 判決

主文

被告人は無罪。

理由

第一、本件公訴事実は、

被告人は堀江船舶株式会社所属の甲板員で同社所有にかかるはまなす丸(総トン数一、二五九トン)の航海当直員として同船の安全航行を維持すべく進路前方左右等周囲の状況を注視する見張業務に従事していたものであるが、昭和四八年一月二九日午前四時三〇分ころ、北海道苫小牧港に向け時速約一四ノットで航行中の同船船橋において、見張勤務中、白老郡白老町所在登別漁港の南南東約五・八海里付近の海上にさしかかった際、その進路左右に操業中の多数の漁船燈火を発見したのであるからその動静に注意しつつ進行し同船との衝突などの事故の発生を未然に防止しなければならない業務上の注意義務があるにもかかわらず、これを怠り漫然前記速度のまま進行した過失により折から進路前方を左舷から右舷方向に向けて航行中の第三大勝丸(約四・八二トン)に全く気がつかず同船右舷後部に自船船首付近を衝突させ、よって右大勝丸を転覆させ、その乗組員桜庭政男(当三九年)、桜庭進(当三七年)、桜庭勲(当三二年)、生島与三郎(当四七年)等をして、そのころ付近海上において溺死するに至らしめるとともに同海上における鑑船の往来の危険を発生せしめたものであるというにある。

第二、序説

本件は、第三大勝丸に衝突した相手船がはまなす丸であったか否か自体が争われ、両船の衝突現場を現認した証人あるいはその衝突の相手船がはまなす丸であることを端的に示す物的証拠等の直接証拠はない事案であるから、検察官提出の諸状況証拠を総合してこれを認めうるかを判断することになる。

(なお、以下月日のみで年数を示さないものは全て昭和四八年の意である。)

第三、本件事故発生

一、本件事故発見に至る経緯

《証拠省略》を総合すると、北海道登別漁港を基地とする白老、登別、虎杖浜の各漁協に所属するすけそうだら刺網漁船等約七〇隻(総トン数約四~一〇数トン)は、各漁協ごとに船団を組んで、一月二九日午前三時三〇分ころから午前四時四〇分ころにかけて、ほぼ全船が同港南沖の施網地点へ向け出漁したが、波浪が強く操業困難であったため、右漁協間で取り決められていた操業開始時刻である午前五時四五分より以前の午前五時ころ各船団長から無線で操業中止の帰港命令が出され、これに従ってほぼ全船が帰港したものの、同日午前四時一五分ころ右漁港口を通過出漁した白老漁協所属の第三大勝丸(総トン数約四・八二トンの木造刺網漁船)が帰港しなかったため、同漁協所属の第一五松栄丸の上野幸男船長は第三大勝丸に機関の故障でも生じたのではないかと懸念し、同日午前八時五分ころ自船で同港を出港しその沖海上を捜索したところ、同日午前八時五〇分ころ、北海道蘭法華岬から真方位一三六度、約八・二海里の海上で転覆漂流中の第三大勝丸を発見したこと、同船の乗組員であった船長桜庭政男(昭和九年九月三〇日生)、桜庭進(昭和一一年一〇月八日生)、桜庭勲(昭和一五年一二月一二日生)、生島与三郎(大正一四年一二月二〇日生)はいずれも同船転覆の際溺死するに至ったことが明らかである。

二、本件事故の態様と原因

第三大勝丸の船体とその破損状況の大要は、司法警察員作成の二月九日付実況見分調書により、船体は長さ約一三メートル、幅約二・七メートル、深さ約一・二三メートルで、船体中央部よりやや船尾寄りの甲板上に船橋があり、船体部には船首から漁具庫、漁倉、機関室と続き、最後部に居住区として使用する船倉を有する木造船であったこと、その破損状況は、まず後部龍骨上は右舷機関室後部付近と居住区の後部左舷側付近を結んだ斜線状に分断され、甲板上の船橋等の構造物はほとんど倒壊して船体から分離し、右舷外板は船首から約六・七メートルの所より甲板面で幅約一・七メートル、船底付近で約〇・八メートルにわたって外板及び舷しょうが剥脱したうえ、肋骨二本が折損して破孔を生じ、その前後の肋骨も四本折損し、これら折れ口は内側に曲がり、右破孔箇所の下部船底には幅約七五センチメートル(以下単にセンチをもって該単位を示す)、深さ約七〇センチの凹損箇所があり、その最深部は内側龍骨付近に達して龍骨が折損し、龍骨上のボルト一本が折損、さらにエンジンベッドに取り付けてあったボルトニ本の上部表面に鋼鉄の如き堅固な物体で強く擦られたと思われる銀色の光沢を呈する擦過痕があり、一方左舷外板は船首から約一〇メートルの所より剥脱し、右舷しょうは船首から約二メートルの所より欠損ないし左舷側に倒壊し、左舷しょうは船首から約二~三メートルの所より内側に倒壊又は欠損し、艫の舷しょうは船尾部を残してその余は欠損し、機関の右後部にあるクラッチは前進位置にあって、燃料ポンプ油量調整用ラック位置は送油状態にあり、クラッチの状況からして前進航行の状態にあったこと、機関からエンジンベッド上の溝を通り船底に通ずる冷却水吸入パイプのエンジンベッド上の部分が長さ約八センチにわたり押し潰されたような板状となっており、その上部表面に赤系塗料が擦過状に付着し、後部マストの下部に結縛されていたナイロンロープにも同様赤系塗料が擦過状に付着していたことが認められる。

右認定の事実によれば、本件事故の捜査に携わった海上保安官の証人本保光明が当裁判所の尋問に対し、あるいは第三大勝丸を建造した渡辺一が司法警察員に対する供述調書の中でそれぞれ指摘するように、前進航行中の第三大勝丸後部右舷に少なくとも数一〇トン以上の鋼鉄船が相当の速力でその船首部を激突させ、そのまま第三大勝丸を転覆させたものと推測される。

三、本件衝突地点

本件の衝突地点については、飯島末松、大久保鉄男の司法警察員に対する各供述調書によれば、一月三〇日正午ころ第三大勝丸乗組員の遺体等の捜索にあたっていた漁船が北海道アヨロ鼻(北緯四二度二七分、東径一四一度一二分―海上保安庁水路部の「日本沿岸地名表」一二頁参照)から約五・八海里、同地球岬から約一二・二海里―登別漁港口よりすれば真方位一四八・五度、約五・九海里となる―の海底(水深約九二メートル)より同船の錨二個を発見揚収したこと、右地点はそのころ漁船第八観晃丸船長大久保鉄男が同船のレーダーと「山だて」の方法により測定したものであることが認められるところ、《証拠省略》を総合すると、右錨は一個約二〇キログラムもある重量物であって、これを船首甲板上に根止めせず乗せていたもので、同船が転覆するにおいては容易に船体から離れて海没することが認められ、この認定事実に同船の前認定の破損状況及びそれによって推測される他船との衝突状況を考え合わせると、これら錨は漂流などによって移動することなく本件事故の発生時・発生地点にそのまま海没した蓋然性が大きく、従って右錨の揚収位置をもって、ほぼ本件衝突地点と考えるのが相当である。

ところで、錨の揚収地点については、右測定結果と異なる測定値がある。即ち、司法警察員作成の二月四日付実況見分調書によって認められるとおり、同月四日室蘭海上保安部の巡視艇が右錨の発見時その地点に投入された浮標位置へ赴き同所からレーダーで測定した「登別漁港口より真方位一四五度、約五・八海里」の値がこれであるが、右測定は発見時から数日を経過してなされたものであって、その間少なからず同地点付近を航行した船舶あるいは操業した底引網漁船等があったであろうし、これらの船舶が右浮標を船体や漁網に引掛けて移動させた可能性があるばかりでなく、レーダーを用いてのみの測定であるのに対し、前者は測定当時陸岸を判り視認しうる状態において「山だて」の方法をも併用しこれによって確認していることに照らし、海上保安部の右測定値は正確性に疑いがあって採用し難い。

四、事故発生時刻

本件事故発生時刻であるが、第三大勝丸が登別漁港口を出たのが午前四時一五分ころであるところ、同船の最高速度は上野幸男の司法警察員に対する一月三一日付供述調書によって時速約七・五海里であったことが認められるので、同速度で右衝突地点へ直進した場合約四八分後の午前五時三分ころには同点へ到達することとなり、一方室村定一の司法警察員に対する一月三一日付供述調書によれば本件事故当日午前五時七分ころ第三大勝丸の漁網設置場所付近から同船にその設置標識を発見した旨通報したが同船より応答なく、上原源四郎の司法警察員に対する供述調書によれば同日午前五時一〇分ころ第三大勝丸を無線でもって二度呼び出したが応答なく、司法警察員作成の二月七日付検視調書、同月三日付捜査報告書(二丁綴)によれば衝突現場付近の海中から揚げられた桜庭政男の死体右手首にはめてあった腕時計(一部破損)の指針は五時七分を示していたことが、それぞれ認められるのであって、以上よりすれば本件事故は同日午前五時三分ころより遅くとも午前五時一〇分ころまでに発生したものと考えられる。

第四、加害船ははまなす丸か

一、はまなす丸の航路

《証拠省略》を総合すると、汽船はまなす丸(鋼鉄製、総トン数約一、二五九トン、長さ約八一・一五メートル、幅約一四・八〇メートル、深さ約八・三五メートルのパルプ輸送専用船)は、一月二六日午後七時ころ徳島県小松島港から北海道苫小牧港に向けて空船で出港し、同月二九日午前四時〇分ころ地球岬灯台から真方位一六五度、約六・八海里の位置で自動操舵装置により真方位三四五度から三四九度に変針・時速約一二・七五海里で進行、午前四時七分ころ地球岬灯台から真方位一六五度、約五・三海里の位置で右同様真方位四九度に変針・時速約一四・四海里で進行、午前五時一~二分ころには蘭法華岬から真方位三二〇度又は三三〇度のいずれかで、約六・二海里の地点を通過し、午前六時〇分ころは苫小牧港防波提から真方位二一五度、約九海里の位置で同港に向けて変針し、同日午前六時五〇分ころ同港北二号岸壁に着岸したこと、右午前〇時から午前六時までの間全速航行であったことが認められる。

なお、午前四時〇分から七分までの右速度は、同日午前〇時から午前四時転針までの航行距離から求めたものであるが、転針とはいえ僅か右四度の変針で従前の針路とほとんど変らず、又速力に変更はなかったのであるから、これに従い、午前四時七分から午前六時までの右速度はこの間の航行距離約二七海里(午前五時一~二分の船位のいずれをとっても右の値は変らない)であるから、時速に換算すると約一四・四海里となるのである。

はまなす丸は、右午前五時一~二分ころの船位と午前六時〇分ころの船位とを結ぶ直線に沿いあるいはこれと若干交差したりしながら航行したことになるが、本件衝突地点から右直線上に下した垂線との交点までの距離(最短距離)は僅か約三〇〇~四〇〇メートル(午前五時一~二分ころの前記いずれの船位によっても右数値に大差を生じる程のものではない)にすぎない。

そして、右午前五時一~二分ころの船位を真方位三二〇度によるものとすると、その右交点までの距離は約〇・四海里であり、はまなす丸の前記速度では約二分足らずで到達しうるから午前五時三~四分ころ同点付近を航行したことになり、他方真方位三三〇度によるものとしてもその右交点までの距離は約一・五海里であり、同船の前記速度では約六分で到達しうるから午前五時七~八分ころ同点付近を航行したことになって、いずれの場合もはまなす丸が衝突地点付近を通過した時刻は本件事故が発生したと考えられる時間帯にある。

以上によれば、はまなす丸が本件事故発生時間帯に本件衝突地点を通過した可能性が充分認められるうえ、当時の同船の速度及び鋼鉄船であることとかその規模等に照らすと、加害船である可能性は一応否定できないところである。

二、漁船員らの大型貨物船目撃状況

1  いずれも第三大勝丸と同様一月二九日早朝登別漁港を出港した僚船の船長である証人平胞義、同小清水福蔵、同小竹安雄、同小堀薫、同佐々木孝一は当裁判所の尋問に対し、同日午前五時〇分ころから五分ころにかけて、暗闇のため直接船体・船名等を視認しえなかったものの、はまなす丸の前記航路に照らしほぼこれと一致する位置及び時刻に苫小牧港方向へ向けて前低後高のマスト燈二個を点燈して航行する一、〇〇〇トン級の貨物船のマスト燈あるいはさらにおぼろげながら船影を、しかも付近にはその一隻のみを目撃し、同船の周辺にはマスト燈一個を点燈した僚船の燈火以外には何も見えなかった旨証言し、又証人上野幸男、同上河直三、同田中正光も当裁判所の尋問に対し右時刻に相前後して同様の燈火を目撃した旨証言しているところ、船体の長さが四五・七五メートル以上のはまなす丸は海上衝突予防法(昭和五二年法律六二号による改正前のもの)二条一項一ないし三号により前低後高のマスト燈二個を掲げなければならず、被告人の司法警察員に対する一二月一七日付供述調書、司法警察員作成の二月一五日付実況見分調書によれば同船が本件事故発生当時前低後高のマスト燈二個を点燈して航行していたことが認められ、検察官はこれら証拠をもって右証人らの目撃した船舶は本件の加害船であり、それははまなす丸であると主張する。

そして、確かに右証言を総合すれば右証人らの目撃した船舶がはまなす丸であることはほぼ間違いないといわざるをえない。

2  しかし、そうであるとしても右証人らの目撃した船舶―即ちはまなす丸が本件加害船であるとするにはいまだ問題がある。けだし、右証言によって二個のマスト燈を点燈した船舶で本件事故発生時間帯に本件衝突地点を航行したのははまなす丸一隻であったということはいえても、他に一個のマスト燈を掲げる小型船舶(長さ四五・七五メートル未満のもの、前記海上衝突予防法二条一項一号、二号但書により一個のマスト燈を掲げるものとされていた)については、マスト燈の数が右証人らの僚船のものと同じであるから暗闇の海上でマスト燈の数によっては僚船とそれ以外の小型船舶とを区別することはできず、さりとて他にこれを明瞭に区別しうる標識等もなく、さらに本件事故当時事故発生の海域には多数の僚船が出漁し、多くのマスト燈が錯雑していたことからしても右識別は極めて困難であり、しかも右証人らの各証言によれば当時は夜明け前の闇夜で時々小雪を伴う寒気の厳しい状況で他船の発見視認が必ずしも容易でなかったことが窺われ、右証人らがかかる困難を排して僚船以外の小型船舶の有無にまで気を付けて海上を注視していたか、はたまた注視したとしても識別しえたかはなはだ疑問であることからして、右「大型貨物船の周辺にはマスト燈一個を点燈した僚船の燈火以外には何も見えなかった」との証言は文字どおりには措信し難く、従って右証言は小型船舶が本件事故発生時間帯に本件衝突地点を航行した可能性まで否定しうるものではなく、例えば、《証拠省略》を総合すると、現に一月二九日午前二時ころから午前三時ころにかけて、第五高砂丸(鋼鉄製、総トン数約一二四・九トン)を含む少なくとも一〇数隻のそれぞれマスト燈一個を掲げた底引網漁船が室蘭港から登別あるいは苫小牧沖に出漁していることが認められるのであって、このような船舶であってもその船体の材質、規模、航行速度如何によっては前述のごとく充分本件加害船たりうるからである。

これに対し検察官から、登別漁港、室蘭港さらには室蘭市追直漁港・イタンキ浜一帯の刺網、底引網漁船等の小型船舶の一月二九日の出漁状況(出漁時刻、コース等)あるいはこれら漁船の船体につき他船との衝突痕の有無を捜査し、また室蘭市内の造船所に修理船の有無等を聞き込んだ結果、室蘭港を基地とする第五高砂丸以外は容疑船とすべき船はなかったことの証拠として司法警察員作成の一月三〇日付、二月一日付(三通)、三日付(二丁綴)各捜査報告書及び同「市内造船所聞き込み捜査報告書」と題する書面が提出され、しかも右第五高砂丸が本件加害船でないことの証拠として、同船に塗装された塗料と第三大勝丸船体に付着していた塗料とは異なるとの北海道技術吏員作成の二月一六日付鑑定書(二丁綴)が請求により取調べられているが、全証拠を精査検討するもそもそもこれら捜査が本件衝突時間帯に衝突地点を航行した可能性のある小型船舶を一隻漏らさず全て網羅してなされたものであることを認めるに足る程の証拠がなく、又その捜査自体各船に対しそれぞれどの程度の取調べがいかなる方法でなされたか必ずしも判然としない以上、その余の点について判断するまでもなく小型船舶が加害船である可能性はなお否定し難いところである。

そうであるとすれば、前記漁船員らの証言によっては未だはまなす丸が本件加害船であると断定しえないこととなる。

三、傷痕

1  検察官ははまなす丸が本件加害船である証拠の一つとして、二月一五日苫小牧海上保安署の海上保安官が苫小牧港岸壁に係留中のはまなす丸船体の実況見分をなして左、右両舷外板に擦過傷を発見していること(司法警察員作成の同日付実況見分調書)、一月二九日同船二等航海士松元久夫が同船苫小牧港入港後その船首部外板に外傷を発見していること(同人の司法警察員に対する一二月一〇日付供述調書)、二月二日被告人も同船小松島港入港後その右舷船首外板に外傷を発見していること(同人の司法警察員に対する一二月一二日付供述調書)を挙げている(論告書中一六丁裏から一七丁裏)ので以下検討する。

右各証拠やさらに証人畠山吉雄に対する当裁判所の尋問調書、司法警察員作成の二月五日付実況見分調書を総合すると、本件事故直後である二月五日苫小牧海上保安署の海上保安官が苫小牧港に係留中のはまなす丸の船体につき実況見分をなした際には、次の傷のあったことが認められる。

右舷側船首材より船尾へ約二・八五~三・六五メートル、船体塗り別け線より下方に約二・二五メートルの付近に長さ約三五~九五センチ、最大幅約二~一〇センチのいずれも白色塗料の付着した数条の擦過痕

左舷船首材より船尾へ約一八・六〇メートル、船体塗り別け線より下方へ約一・五〇メートルの付近に水線を基準として約三五度の角度で水線下から右上方に尖頭型に延びる二条の擦過痕(水線上の長さ約四〇センチ・最大幅約四センチのものと、水線上の長さ約二〇センチ・最大幅約六センチのもの。但し右見分時における吃水は船首側約二メートル、船尾側約三・二メートル)

まず右の傷痕についてであるが、吉田一雄作成の二月五日付任意提出書、司法警察員作成の同月二日付捜査報告書(二丁綴)と同月五日付実況見分調書、司法警察員作成の同月七日付鑑定嘱託書(謄本)及びこれに対する北海道技術吏員作成の鑑定書を総合すると、同月五日苫小牧海上保安署では右傷痕に付着していた白色塗料を採取し、室蘭海上保安部ではこれとともに先に採取されていた第三大勝丸の右舷破損部付近外板に塗装されていた白色塗料とを北海道警察本部犯罪科学研究所に送付してこれらの異同につき鑑定嘱託の結果、異なる塗膜と判定されたことが認められ、この鑑定結果からして本件事故との関連性は殆ど否定されるものといわざるをえない(右傷痕は、右二月一五日付実況見分調書中ではまなす丸船長吉田一雄が供述するとおり揚錨のとき錨又は錨鎖が接触・擦過して生じたものではないかと考えられる)。

右の傷痕であるが、右二月五日付、一五日付各実況見分調書によれば、いずれも外板塗装面の塗膜の剥離はなく、ただささくれだった木片でかかれたような、船体付着の苔が擦り取られた程度のものであったことが認められるが、この程度の傷痕であれば通常の航行に伴って海上の浮遊物等に接触しても生じうるものであるから、右傷痕と本件事故との関連性はあるともないとも断定し難い。

そして他にはまなす丸の左右両舷外板、船底、船首部等に本件事故によるものと認めうる傷痕の存在を示す証拠はない。

2  かえって、本件事故の態様及び第三大勝丸の損傷状況からすると相手船がたとえ鋼鉄製の大型船であってもその船体に相当の衝突痕を負ったはずであり、ことに船首部には顕著な傷痕を形成したものと考えられるところ、白川渉の司法警察員に対する供述調書によれば、二月五日同人は苫小牧海上保安署の依頼により苫小牧岸壁に係留されたはまなす丸の船体の潜水調査をしたが、船首部には他船と衝突したような形跡はなく、ただ水線下左舷外板にほぼ水平に幅約二センチ・長さ約六センチの塗料が剥げ地膚の鋼板が露出した新しい傷一箇所、左右両舷にそれぞれほぼ水平方向に走る幅約二~三センチ・長さ約〇・五~一・五メートルの擦過して苔がとれた傷が一〇箇所程と、スクリュー前面の部分に海草が剥げ地膚の露出した状態の所四箇所が認められたというのであって、この程度のものはいずれも前同様通常の航行に伴って海上の浮遊物等に接触しても充分生じうるものと考えられる。

3  してみれば、これら、の傷や痕跡よりしては、はまなす丸が本件加害船であるとするのは早計であって、殊に船首部に衝突した形跡が認められなかったことよりすれば、同船が本件加害船であるとすることは甚しい疑問といわざるをえない。

四、塗料の鑑定

第三大勝丸の前記パイプとロープに付着していた赤系塗料とはまなす丸左右両舷側から採取した塗膜片とは類似性が極めて高く、ほぼ同一と推定されるとの斎藤治一作成の鑑定書があるので検討する。

右鑑定書が作成された経緯については、証人斎藤治一、同本実の当公判廷における各供述、同本実に対する当裁判所の尋問調書、吉田一雄作成の二月一五日付任意提出書、司法警察員作成の同月九日付、一五日付各実況見分調書及び同月七日付鑑定嘱託書(謄本)、北海道技術吏員作成の同月一六日付(三丁綴)、三月八日付各鑑定書を総合すると、二月一五日室蘭海上保安部では、はまなす丸左舷外板にあった前記二条の擦過痕付近から赤錆色の塗膜片を採取し、同月一六日これを前記犯罪科学研究所に送り、先に第三大勝丸から採取し鑑定のため送付済みの右パイプとロープに付着した赤系塗料との異同についての鑑定を嘱託したところ、硫酸等の試薬による溶解試験及び発光分光分析の成積は同一性を示す結果となったが赤外吸収スペクトルによる比較では大略類似するもやや相違する点があったため、結局のところその異同は不明との右三月八日付鑑定書記載の結果になったこと、そこで同海上保安部では日本塗料協会の斎藤治一に対し、右二月一六日付鑑定書(はまなす丸船底塗料と右パイプ・ロープに付着の赤系塗料との異同等を鑑定したもの)の鑑定に際して作成されたこれら塗料の赤外吸収スペクトル曲線図の写(図中「36丁」とあるのははまなす丸船底塗料、「パイプ」、「ロープ」とあるのは右パイプとロープに付着していた各塗料の意)一枚を図「甲」として、右三月八日付鑑定書に添付されていた「図1」と表示の赤外吸収スペクトル曲線図(図中「資料甲」とあるのははまなす丸左舷外板塗膜片、「資料乙」とあるのは同船右舷外板塗膜片)一枚を図「乙」として各送付し、右パイプとロープに付着した塗料とはまなす丸左舷外板の塗膜片の各赤外吸収スペクトル曲線の比較による異同の鑑定を嘱託したこと、同人は右比較をなして同人作成の前記鑑定書をまとめたこと、同鑑定書末尾の二枚の図は右図「甲」、「乙」を添付したものであることが認められる。

ところで、そもそも第四回公判調書中の証人斎藤治一の供述部分及び同証人の当公判廷における供述によれば、一般に赤外吸収スペクトルの場合サンプルが純品に近いときは解読しやすいが、混合物となると各成分の複雑な吸収スペクトルがお互いに重なるため解読が困難となる性質を有するから、通常はなるべく少数の成分に分離し、あるいは少数の成分を抽出してから分析を実施するべきものであるところ、右三月八日付鑑定書によれば図1(前記斉藤治一作成の鑑定書の図「乙」)に示されたはまなす丸の左舷外板塗膜片の赤外吸収スペクトル曲線は四層から成る右塗膜を、そのまま一括して測定したものであることが認められるのであって、このような方法で作成された右塗膜片の赤外吸収スペクトル曲線をもとになされた同人の鑑定は正確を期し難く、又同証人が当公判廷において供述するとおり、右パイプとロープに付着していた塗料と、はまなす丸左舷外板塗膜片の各赤外吸収スペクトル曲線を比較すると全体として類似性はあるものの物質の特性を示す吸収が出る、いわゆる「指紋領域」で明瞭に強度順位が異なる―含有成分の割合に差があるなどのため―ので同一性の有無までは判定し難いことが認められるのである。

よって斎藤治一作成の鑑定書をもって、はまなす丸が本件加害船であることを認定しうる証拠とはなしえないものといわざるをえない。

第五、まとめ

以上考察したところによれば、はまなす丸の本件事故発生当時におけるその航行位置、第三大勝丸の僚船乗組員らが目撃した大型船舶がほぼはまなす丸であると考えられること、同人らはそのころ付近には他に航行中の大型船舶を認めていないことなどよりすれば、はまなす丸が本件加害船ではないかとの疑いも一応存するわけであるが、一方同船の船体には衝突の痕跡と認めるに足りるものはなく、他に第三大勝丸との衝突を断定しうる物証も存しないのであり、また本件事故発生当時その現場を前記の如き小型船舶が航行した可能性も否定し難く、あるいはそれらの船が本件加害船ではないかとの疑も払拭できないから、結局のところ本件は業務上過失致死、業務上過失往来危険の罪につき各犯罪の証明が不充分として被告人に対し無罪の言渡をするのが相当であると判断する。

よって刑事訴訟法三三六条により、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 藤原吉備彦 裁判官 杉本孝子 坂主勉)

〈以下省略〉

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